過去の公演



 2017.2.19 『ことよさしの會』.004
 〜シュタイナー教育における人形劇〜
  
 ・ありがたうございました!(山崎淳子さん)
  (諏訪耕志)



 2016.12.23 『おはなしペチカ』.002
  
 ・神と人の共同作業 〜ペチカを終えて〜 
  (諏訪千晴)

 ・ありがたうございました!「第二囘おはなしペチカ」  
  (諏訪耕志)



 2016.11.16 『空閧ノ織りなすことばの世界』
  
 ・二人三脚 〜『高瀬舟』百年長屋公演、ありがたうございました〜  
  (諏訪耕志)

 ・11月21日 毎日新聞掲載 『本物の芸伝える拠点』  
  (諏訪耕志)



 2016.10.2 『ことよさしの會』.003
 〜日本神話と昔ばなし〜
  
 ・第三回『ことよさしの會』ありがとうございました!  
  (諏訪耕志)

 ・なずまないこと  (諏訪千晴)



 2016.7.31 『ことよさしの會』.002
 〜おはなしの力、ことばの力〜
  
 ・靈的なものへの尊重  (諏訪耕志)

 ・「つぶ」がくれたもの  (諏訪千晴)

 ・第二回 『ことよさしの会』 アンケートより
 ・公演ご感想 「日本人であること」



 2016.6.18 『おはなしペチカ』.001
  
 ・物語を産む 〜『おはなしペチカ』を終えて〜  
  (諏訪千晴)

 ・第一回 おはなしペチカ ありがとうございました  
  (諏訪耕志)



 2016.4.29 『ことよさしの會』.001
 〜生徒さんたちによる発表会〜
  
 ・第一回ことよさしの會 ありがとうございました
  (諏訪耕志)



 2015 大阪 ・ 2016 神奈川
 言語造形 ふたり語り公演 樋口一葉作『十三夜』
 





身に喰い込む憂いを抱えて
女ひとり、男ひとり、ぽつんと、立っている。

十三夜の月の光の下
ふたりそれぞれの後ろに伸びる闇。

その闇と闇とが淡く交わり、また別れていく・・・。



 大阪公演のご感想はこちら    神奈川公演のご感想はこちら





■大阪公演    
2015年11月14日(土) 14:30開演 
日本聖公会 大阪聖アンデレ教会 

■神奈川公演
2016年4月2日(土) 14:30開演
日本キリスト教団 まぶね教会

◆出演  諏訪 耕志  諏訪 千晴
     清水久芳 (ギター演奏)





一葉の書きし明治の世     諏訪耕志

昨年の秋の大阪での上演とは全く違うこころもちで、わたしは今回の舞台を迎えています。この作品の稽古を重ねるほどに、この作品と出会えたことへの感謝が溢れてくるのです。

夫婦関係、男と女の関係というものの中で、どうしても、そのように動いてしまわざるをえない力学のようなものがあり、その力が自分自身の実生活と見事に重なっていることに気づいたときの驚きは、ここでもうまくことばに出来ずにいます。

人は理屈で生きているのではなく、情動で生きているということ。そして、情でこそ生きる人生というものを、おおぜいの人が理屈で処理しようとしはじめたのが、もしかしたら明治という時代なのではないだろうか。そして、その流れはいまだに続いていて、つぎつぎと人のこころを死に追いやろうとしている・・・。

一葉がものしたこの物語に出会えたことによって、わたしは、世界を、他者を、そして自分自身を、無意識に理屈で処理しようとしている己れの性向に歯止めをかけるチャンスをもらえたように実感しています。

一葉の 書きし明治の世を思へば 
ゆゑわかなくに 眼(まなこ)潤み来  吉井勇


この物語を皆さんが耳でお聴きになって、全身でお聴きになって、どのような人間像と人間ドラマが立ち上がってきますでしょうか。お楽しみいただけましたら、幸いです。





暗闇の最奥に見たもの     諏訪千晴

初めてこの作品に触れたとき、全身が燃えるように熱くなって、一気に読み上げたのを憶えています。そして、「是非ともこの作品を、言語造形によって世に送り出したい」と思ったのです。そうして公演が決まり、作品に取り組み始めたものの、「果たしてお関はなぜ、父の説得で離婚の意志を一八〇度も転換したのか」ということが、当時の私にはまだピンと来ていませんでした。さらには馴染みのない明治時代の一葉の文体を、身体に染み込ませることからして予想以上に苦戦し、ようやく台詞が馴染んでからも、この「十三夜」稽古の日々は、私にとって難関、苦難の連続でありました。

今、本番を目前にしたこのときに至って、ようやくお関のあの「転換」の意味、リアリティを、私自身が感じられるようになってきた気がします。おそらく彼女は、その苦しみの果てに、「私」という小さな自我を、そっと手放したのではないか、と。    

言語造形の取り組みにおいて、天から言霊の一音一音、その聖なる音を迎え入れるときに、楽器となる語り手の体にこの小さな自我がいると、ことば本来の健やかな響きを曇らせたり、遮ってしまいます。私自身、今回の作品を通して、嫌というほどこの「自我」に邪魔をされ、苦しめられました。でもその果てに・・・外から見たらまさに「どん底」と言えるような暗闇の底にあるときに、初めて自分の最奥に、静かで確かな「光」を見たのです。きっと、きっとお関も、父親のことばを・・・その現実には何も変わらないけれど確かに愛から発せられたことばを通して、自らの外ではなく内に「光」を見出したのではないか・・・そんな風に感じています。

誰しもの内に存在する「闇」と「光」を、この教会という空間で皆さまと分かち合えましたら幸いです。




 2016 大阪 演劇クラス発表会
 演劇『安達原』 語り『蛇の輪』
 





 熊野から奥州に修行の旅に出た山伏三人。
 日が暮れかけてようやく到着したのは、「鬼こもれり」と聞く安達原。

 一軒のさびれた家に宿を頼むと、一人の老婆がしぶしぶ中へと案内する。
 糸車を廻しながら昔を偲んだ後、客人のため薪を取りに出かけてゆく老婆。
 「その間、決して寝間を覗かないように。」と言い残して・・・



 公演のご感想はこちら





■ 演目  演劇「安達原」、 語り「蛇の輪」
■ 日時  2016年2月20日(土)
■ 会場  クレオ大阪中央 セミナーホール    

◆出演
       語り 『蛇の輪』 : 諏訪耕志  
       演劇 『安達原』 : 鹿喰容子 諏訪千晴 中将ゆみこ 村上恭仁子
                  堀内亜紀 (竜笛)

◆演出  諏訪 耕志 





■諏訪耕志(すわ こうじ)  *  語り 「蛇の輪」   ことばの家 主宰

 この『安達原』は能のテキストであり、諸研究家によるそれぞれの論があり、諸流派によるそれぞれの演出がありますが、このたびの舞台は、それらのすべての論、すべての演出から離れて、ことばの芸術作品として、ただただ戯曲に記されていることばにシンプルに沿うことを試みています。
 ことばの響きに応じて、息遣いに応じて、どう足を運ぶのか。どう振る舞うのか。どうことばを発するのか。ことばの響きに、繰り返し、繰り返し、耳を傾ける。そのような稽古を通して、だんだんと、どうすればいいのかという、その戯曲に秘められている秘密が明かされてくる。そうして、演じている者たちは、この『安達原』という存在が、いかなる内実を蓄え、いかなる念いと祈りを発信し、いかなる精神をのちの代まで貫こうとしているかを、知るのです。
 『安達原』は生きています。ことばというものは、当たり前のもの、口を開けばおのずと出てくる自然のもの。しかし、言語造形を通して、わたしたちは、自分自身の取り組みいかんによって、ことばはいくらでも深みを見せてくれるのだということを、驚きつつ学んでいます。
 一本一本の糸のようなひとことひとことのことば。そのひとつひとつのことばが織りなし合わされて、ひとつの作品になるとき、それは、ひとつの織物の仕上がりを目の当たりにするようです。しかし、それは、完成などとは云うには遠い、とことわの試みです。演者ひとりひとりが、いかに己れみずからを素直な糸の通り道としていくかを試み続ける。それによって、今回も、演劇という、ことばの芸術、対話の芸術を織りなしていきます。わたしどもの永い試みのひとコマを、味わっていただけたらと希っています。





■鹿喰容子(ししくい ようこ)  *  アイ(「祐慶の従者」役)

 アイは室町時代に生きた能力(のうりき)です。人生を、限られた時間を好きに生きるものと知る人です。今日のお話の中で、アイはワキ達の巡礼に喜んでお伴します。シテの想いが詰まった枠枷輪(わくかせわ)の音も、アイには糸車のそれに過ぎません。天邪鬼なアイは思いの儘にシテの寝所を覗きます。
私はアイを自然体な、原始的な人と受けとめました。また、生きている事を喜ぶという人として基本的な事をアイの御蔭で思い出しました。アイの語る言葉は無邪気で、その一音一音に喜びが溢れています。
 演劇クラスは恵まれた環境でした。毎回熱心に教えて下さった諏訪耕志・千晴先生御夫妻はもとより、シテ役の村上恭仁子さん・ワキ役の中将ゆみこさんは、長年言語造形に取り組まれ、美しい言葉を話す方々です。初心者の私は彼等の言葉の美しさに毎回のお稽古で魅了されました。それはいつしか言葉を愛おしく思う事に繋がり、今では日常生活でも言葉の中に美しさを探す様になりました。豊かさを感じる幸せな事です。言語造形の御蔭です。
悪魔の様で天使の様なこのアイを、私は今日皆様に向けて演じます。アイ狂言の存在が、『安達原』の「黒塚」でどのような災難と恩恵を起こし施す事になるか、どうぞ御覧になって下さい。





■諏訪千晴(すわ ちはる)  *  ワキツレ(「祐慶の共の山伏」役)

 演劇クラスの皆さんとともに、古典芸能といわれる「能」のテキストに寄り添った一年間。ただひたすら「呼吸」に耳を澄まし、「ことば」という音の霊(たま)に身体まるごと仕えた日々でした。そうして私たちは、室町に生きた人たちの内面深くに誘われ、そこにいのちの息吹を吹き込むことによって、『安達原』は、今この新たな変化期を迎えている二〇一六年の世に、再び蘇りの時を迎えました。
 稽古において「黒塚」という異次元へ踏み入るたびに、私たちは意識を超えた領域でこの「鬼女」と同じ浄化・変容のプロセスを辿ってきたように思います。『安達原』という作品そのものの意志と導きを感じつつ、この舞台空間が、今を生きるすべての人の内なる「黒塚」の浄化へと、誘うものとなりますように。





■村上恭仁子(むらかみ くにこ)  *  シテ(「老女・鬼女」役)

安達原に取り組んで初めにテキストを手にした時、内容は理解できず、ただ灰暗色のススキ野原をさ迷い歩く鬼女のみが見えました。練習を重ね、俳優たちと思いを共有する中で、実はその風景は、鬼女の、そして、私たち一人一人が抱えている心の闇であることが見えてきました。自分の中の闇―両親への恨みと娘への嫉妬―には、薄々気づいてはいましたが、向き合ったのは初めてでした。十二月、それらを認め、闇をもたらしたものに感謝できた時、初めて、鬼女のかすかな喜びと安堵が見えてきました。この一年は、「ことばから与えられる」世界の奥行きの深さを味わいつくした日々でした。本日はお越しくださり、本当にありがとうございました。





■堀内亜紀(ほりうち あき)  *  龍笛

『安達原』の舞台である福島には鬼女を封印した場所とされる「黒塚」があるそうな。 図らずも参加を決めた瞬間から自身の心の奥底の闇と向かい合う作業が続き、次第にそれは更に集合的な闇へと繋がっていくようでした。「安達原」に龍笛で関わり、また描く事でも闇との交感を進めるうち、同時期に闇との対話を個々で進める女性達との繋がりが一気に表出してきました。観客の方々とご一緒する事でこの繋がりの全体像がどのように表れるのか楽しみでなりません。





■中将ゆみこ(ちゅうじょう ゆみこ) *  ワキ(「山伏・祐慶」役)

 みちのく安達原とは、一体何処なのか。福島の安達ヶ原、黒塚の地ではあるのだが、お互いの声の響きのうちに立ち上がる演劇空間は、どこかもっと普遍的なあるいは異次元的な空間である。同じことは時間軸においても言える。これはいつの時代の話なのか。中世という時代区分を想像は容易く超えて拡がり、線形上にはない「今」が出現する。
練習中、私達はただただ、自分たちの発する言葉の響き、リズム、息遣いに心を傾け、全身を寄り添わせてきた。すると目には見えない内面の動きは激しくなるが、外側の舞台上の動きは抑制され、ある種の様式が立ち現れてきた。この様式こそが舞台の時間空間の設定を自由にし、人物像を役者の個性を超えた普遍的な元型として造形させるものだと実感する。だから、鬼も僧も荷夫も、今、ここで、我が心の内に存在するのである。
 不思議なことに、このように劇中の人や場を普遍的・異次元的なものとして浮かび上がらせるのは、私達の声や動きであり、その元となるものは身体なのだが、一方でこの身体は現実世界に存在するための土台でもあるのだ。つまり、私達の身体は、私達を現実世界に存在なさしめることもできれば、架空の世界を創造することもできるのである。
 身体に流れる智恵と力に感嘆しつつ、まだまだ拙いながらも創ってきた舞台空間を、もしともに味わい楽しんでいただけたら、こんな幸せなことはないと思う。




 2015 大阪 ・ 神奈川
 言語造形公演 木下順二作『夕鶴』
 





  どの人のこころの奥にも、幼な子が眠っている。
  こころの奥の幼な子・・・。
  その幼な子が微笑むと、
  人は途端に安らぎと喜びと愛を想い出す。

  人は、いつか、
  幼な子の微笑みを想い出すのだろうか。



■大阪公演    
2015年2月1日(日) 開演14:00 
大阪市立住吉人権文化センター 

■神奈川公演
2015年5月1日(金) 開演18:30
相模女子大学グリーンホール

◆出演
     塙 狼星
     松田 美鶴
     諏訪 耕志
     諏訪 千晴

◆演出  諏訪 耕志 
◆特別出演  諏訪 夏木  諏訪 かさね             





舞台の上での批評     諏訪耕志

わたしたちとっては、この『夕鶴』は五年ぶりの再演です。今回、稽古を重ねてきて、木下順二の戯曲から、五年前には気づかなかった新たな魅力、意味がわたしたちに立ち顕れてきています。

 男と女というもの。
 金の魅力とその価値観を粉砕し無化してしまうほどの
 何かへの予感。
 おさな子たるところと如才なさとの間の往復。
 精神の高みへの憧れと拒否。
 人と神とのかかわり。
 人と悪魔とのかかわり。
 そして、わたしたち日本人と神とのかかわり。

それは、頭による作業からだけではなく、こころからの、からだまるごとからの、ことばというものへの取り組みを通して、戯曲自体が語りかけている声をわたしたち演者が聴き取っていく作業から生まれてくるものです。

言語造形というものを通して舞台芸術を創り上げていくことの何よりの魅力は、何度も何度も声を出し、稽古を重ねていくことで、ことばというものをからだまるごとで洗い直し、その行為の繰り返しによって、思いもかけないことばの深み、作品の深み、人が生きることの深みがだんだんと顕わになってくる、ということです。
 
時間の積み重ねの中で、作品が変容していく。
作品に秘められているものがだんだんと顕わになっていく。
 
物語や戯曲や詩という言語芸術の批評が机上でなされるのではなく、稽古場の中で、舞台の上で、なされる、ということに大きな魅力を感じています。
 
わたしたちが聴き取りつつあるものと、劇を観て下さり、聴いて下さる方々が聴き取るものとが、どう重なり、どう隔たるか。

小学生から人生の酸いも甘いも噛み分けてこられた熟年の方々まで今日は聴きに来て下さっています。
皆さんの精神に響くような舞台となることを念じております。







 2014 大阪 
 ことばの家の『クリスマス祭』
 


  わたしたちの毎年のクリスマスは、
  聖き幼な子の誕生を想い出すお祭りです。

  その幼な子とは、どの人のこころにも宿る精神の光であります。

  クリスマスは、
  その幼な子が、わたしたちどの人のこころの奥にも生まれいづることを想い出し、
  そのことを祝い合うお祭りでもあります。
                
            



■ 演目  グリム童話「白雪姫」、 日本の昔話「大歳の焚き火」
      全員でアドヴェントガーデンのキャンドルサービス
■ 日時  2014年12月20日(土)
■ 会場  ことばの家    




 2014 大阪 
 村上恭仁子さん公演 『台所のおと』
 


  台所から立ってくる響き。
  そこには、台所に立つ人の気性、性格、心根、さらに志もが響いています。

  日本語の美の至上として、幸田文のこの物語を、耳で聴くことの味わいを是非ともご嘆賞ください。
  ときに繊細に、ときに力強い扱いをもって、村上恭仁子さんはこの物語を語ります。


■ 演目  幸田文著 「台所のおと」
■ 語り   村上恭仁子
■ 演奏  チェロ  山口健
■ 日時  2014年10月5日(日)
■ 会場  ことばの家

               



公演にあたって     村上恭仁子

この度はようこそおいで下さいました。
言語造形の魅力に取りつかれて、三年目となります。

言語造形とは、ルドルフ・シュタイナーの提唱するアントロポゾフィーを元として編み出されたことばの芸術です。ことばの一音一音に耳を澄ませ、一音一音のかたちを意識し、息遣いや間を意識して語ることで、まるで文字が音楽のように奏でられます。その時、語り手の体は、ことばが通る管となり、まさしく、息を吹き込むことで音の鳴る楽器と化します。

お稽古をしていると、慌ただしい日常生活において、日々、いかに深い呼吸をする余裕を失っているかがよくわかります。次から次へと押し寄せてくる情報や考え、あらゆる想念・・・それらをすべて一旦脇に置き、体を真空にし、自我を失くして芸術に身を預けること、それは真の人間性を取り戻すこととも言えます。

言語造形では、「息を吐き切る」鍛錬に非常に時間をかけます。
これ以上吐けない、というギリギリのところまで来てはじめて、ああ、助かった、救われた、という感謝の思いが湧いてきます。

「息を吐き切る」

ただそれだけで、次の呼吸、新たな息吹が入ってくるのです。吐き切ることで、生きる力が湧いてくるのです。まさしく、芸術とは、いかに深く呼吸できるかにかかっており、
まさしく、人間の根底になくてはならないものではないか、と思うのです。

とはいえ、お聞き苦しいところもあろうかと思います。益々精進して参りますので、
今後ともご支援を賜りますようお願い申し上げます。
本日は、誠にありがとうございました。



  

深い深い息遣いと、ことば一語一語の明瞭な造形。

わたしたち観客は、彼女の深い呼吸を共にし、ひとつひとつの音韻の造形と共にみずからも密やかなダンスをしながら、物語を共に生きたのでした。

それは、まぎれもなく、その場にいる人と人との、目には見えない、一瞬一瞬に織りなされる精神の連携でありました。

だからこそ、老若男女皆、今日の二時間を超える公演中、身じろぎもせず、空間に造形されることばの世界に浸りきっていたのでした。

全く、稀有な世界だと思います。

その世界を村上さんと共に観客みんなで創り上げたのです。

山口健さんのチェロ演奏もこころの深みに触れるような響きを奏でてくれました。

言語造形の舞台は、ことばの響きと共におのずと立ち現われる精神の空間です。
ひとりひとりの人が集い、そこでことばの精神に耳を傾ける礼拝の場です。

終演後、わたしは妻とふたりで話しました。
「自分たちは、このことばの家で、何をやってるんだろうね」
「言語造形に仕えさせてもらってるね」

素晴らしい舞台を生んでくれた村上さん、山口さん、そして観客の皆さん、
本当にありがとう。

諏訪耕志




 2014 大阪 
 「詩とメルヒェン 〜詩人による言語造形〜」
 


  詩は、私にとって、「わたしは在る」というその臨在の、すぐそばにまで在って、
  自分の魂を写すもののように思います。
  向かい合い、書くことを通し、わたしをそこまで運んでくれる、形ある天からの息吹であると。

  今回は、自宅を店舗にしている「菓子美呆」のコンセプトにもなっている物語を、
  メインに語ります。   
  詩は、植物や、人間の感情や心象風景をテーマに選んで語りたいと思っています。

  静かな夏の昼下がり、温かな思いが、ことばの家を満たしますように。   稲尾教彦


■ 演目  自作の詩と物語
■ 日時  2014年 7月13日(日)
■ 会場  ことばの家

               



公演を終えて     稲尾教彦

7月13日(日)は、大阪「ことばの家」で言語造形公演をさせていただきました。
「詩とメルヒェン」という題での公演。

まず、諏訪先生のアトリエでもあるこの「ことばの家」のもつ、場の力の優しい強さに感謝します。
この建物全体を包む、目には見えない空気は、こころの内を自然とひらかせてくれるような雰囲気をもっていて、ことばを語りながら、自分の内に深く降りてゆけるような、そんな感覚を助けてくれる場であると感じました。やはり、諏訪先生が日々過ごし、訓練し、瞑想する力が、この建物全体に浸透して、この空気を作っているのだなと思いました。
今日は間違いなくいい日になる、そんな想いが自然と、ふつふつと沸いてきます。

14時半開演までの間、1時間半ほど稽古をし、公演に臨みました。

みつろうローソクに灯を燈し、クラングシュピール(鉄琴)の音が静かに空間を鳴らして、
僕は遠くを見つめ、ゆっくり息を吐ききりました。

僕はこのとき、いつも、お客さんのこころを、自分の内側にすっぽりと包み込んで、そのままのぽっかりとしたこころのままに、はじめの一音(一語)を発するような感覚でやっています。ことばの音は、僕から聴こえるかもしれませんが、音ではない何かは、聞き手の内部から、湧いてくるのではないかと思うからです。

内部のその感覚が、わたしたちを共有して、内なる旅へと運んでくれる。
ともすれば、天へと。そのことを、僕は、切願するのです。

あっという間のような、40分ほどの詩の語りの時間。夢のような、時間でした。
声と、静寂、無声音の息遣いの中、
響きの波紋の先に、こころの琴線、大切な感覚があると思えるような。
しんしんと深まってゆくような時間を、お客さんと一緒に体験できたような時間。
いかがでしたでしょうか。

休憩を挟んで、後半25分ほどの「おじいさんと小さな男の子の話」の語り。

僕は、こころもちをゆったりとして、臨めました。
何度も何度も繰り返しているせいか、力が抜けて、かすかに微笑など浮かべながら、語れたような気がします。息遣いにも、やや、空間に含み(ゆるみ)を持たせたような感じ。それでも、全体に緊張感はあって。もう少しで、もう少しで、なにか、ここに降りてくるのではないだろうか・・・というような感覚。

終わりのほうに差し掛かるとき、ああ、もう終わってしまうのか・・・と
語り終わりがおしいような気持ちになりました。

木製の小笛を吹いて、ローソクの火を消して、おしまい。
最後まで、静けさがありました。

この公演が終わって、またまた、次なる目標が出来ました。
語りの歩みを進めた先に、ずっと先があって、それを予感として感じたのです。
この予感が、また僕を突き動かしてくれます。日々の暮らし方に、指針を与えます。
自分を導くために、その予感へと、日々近づき、詩と、言語造形を磨いてゆきたいと思います。

お越しくださったお客様、それから、何から何までお世話になりました諏訪先生と奥様、
本当に、ありがとうございました。

ブログ 「美呆村」 より掲載



  

「一本の樹木 詩を紡ぐ人と言語造形をする人」 (←ブログへジャンプ)  諏訪耕志




 2014 大阪 
 「大人が楽しむグリム童話のひととき」
 


                 

   「白雪姫」(音声 full version)はこちら


  いま、何かとせわしない日々の生活に追われているわたしたち。

  そんなわたしたち大人こそが、
  こころの奥底でメルヘンや昔話に聴き入ることを求めてはいないでしょうか。

  ろうそくの火を囲んで、バイオリンとガムランの響きとともに、
  三つのグリム童話に耳を傾けてみませんか。

  洋の東西を越えて、
  童話は誰しものこころの故郷の調べを奏でています。


■ 演目  「兎の花嫁」諏訪千晴 / 「星の銀貨」諏訪夏木 / 「白雪姫」諏訪耕志
■ 演奏  ヴァイオリン、ガムラン   森田徹
■ 日時  2014年 2月16日(日)  【昼の部】 ・ 【夕の部】 
■ 会場  ことばの家

               
 


万葉集とグリムメルヘン     諏訪耕志

 今回、なぜグリム童話を公演で取り上げることにしたのかを改めて自分自身に問うてみました。ここのところ、わたしにとってとてもリアルに響いてくるのが、『萬葉集』の詩歌でした。五・七・五・七・七の三十一文字で描かれてあることばの世界。そこに記録された様々な歌を口ずさんでいると、この三十一文字の裏にもうひとつの文字になっていない歌があり、その歌は創造や生成の場としての混沌と言っていいようなところから立ち上がってくるもので、それは原形質の感情であるがゆえに、すぐにはことばにして言い表すことのできないものだと感じます。
 この、歌の本質と言えるものこそを、古代の人は、「言霊」と言ったのだ。この「言霊」ということばを、ことさらに新興宗教の教説めいて言うのではなく、ごくまっとうに、どの人のこころの内にも感じられる、詩歌の味わい、詩の詩たるところ、ことばのことばたるところとして捉えたいのです。
 そして、メルヘン、童話、昔話、というものを読んだ後、聴いた後にも、その詩歌の味わいに似た、ことばではうまく説明できない余韻のようなものがこころの深みに揺曳しています。
 そのこころの奥に揺らめくように生きる絵姿。響く調べ。きらめき、くすむ色彩。そのようなことばにすぐにはできないところを、グリムメルヘンを通して人と分かち合いたい。そう思ったのでした。
 わたしの師の鈴木一博さんが以前に書かれたグリムメルヘンについての文章です。

ひとつ、こういう試みも役に立ちます。いわば実験的様式論です。ひとつのメルヘンを取り上げて、一、二回、読み通したら、本を閉じ、相のひとつ、ことのひとつを、思い描きます、ありありと迎えてみます。そして、そのひとくさりを、ことばにしてみます、声にだしてみます。そしたら、また本を開いて、グリムがものしたその箇所を、よく見てみます。ほとんどそのたびごとに、こういうことが分かるでしょう。グリム兄弟が要しているのは、こちらが要したことばの、おおよそ三分の一ほどだと。また、その少ないことばをもってつくられる文の、大いなる単純さも、際立つでしょう。

さらに、こう問うこともできます。その簡潔な、「飾りのない」言語の形において、読む人が読んだ後に抱くとおり、そうした多彩で、豊かな相が生じるのは、なぜでしょう。その問いをもって、こういうことがはっきりします。まさにその控えめで、みごとに簡潔な形に触れてこそ、読む人のイマジネーションの力に火が点きます。

その力は、ひとつの形を要します。普遍的で、広く、自由の余地を残す形であり、それが十分にそうであってこそ、読み手、聞き手の内なる働きに場が与えられます。


 言語学者でもあり、民俗学者でもあったグリム兄弟によって、人々から聴きとられたメルヘンは手を入れられ、彫琢され、造形されて、見事なまでに簡潔なかたちをわたしたちに提示してくれています。
 萬葉集の歌やこのグリムメルヘンのように、そのような「かたち」をもって、人の「イマジネーションの力に火を点ける」ことこそが、文学の本望であり、ことばの芸術の本来の働きなのではないでしょうか。 



  


読めば不条理で荒唐無稽のように思えるグリム童話のお話が、生きて語られる言葉を通して出逢うときに、全く違った印象と世界を体験させてくれます。
いのちはこちら側に流れている、と思えるような。

情報ではない、生きたことば、生きたお話が童話にはそのままあるようです。頭で追わずに体で感じる方が童話にはよりふさわしいのかもしれません。感じた後でこころの奥で密かに変化している何か。じわじわと。三人の言語造形から、感じたそのままを音にするように。

今回はヴァイオリンとガムランで音楽をつくっています。
童話にながれているものを体で感じてみてください。
                                                   森田徹


  






 2013  姫路・大阪
 「宮沢賢治の世界 」 〜 めくらぶだうと虹 ・ 虔十公園林 〜  


  
          

  たまきはる、命からの叫び。
  至高のものへの祈念と悲願。



  そのような、文学の生まれる根源に思いをいたしたく、
  ことばが芸術となりえる場を、
  皆さんと共に創ってみたいと願っています。


  語り  : 諏訪耕志   諏訪千晴   諏訪夏木


  ■姫路公演 : 9月27日(金)  姫路市環境ふれあいセンター
  ■大阪公演 : 9月29日(日)  ことばの家
  ■大阪再演 : 11月30日(土) 玉造 百年長屋


  大阪公演のご感想はこちら  当日の写真とご報告はこちら



           
           

新しい豊かさ 〜言語造形の舞台とは〜

わたしたちは、ひとりひとりどの人も、
凄まじい位の豊かさをすでに与えられているように思う。

その豊かさとは、内的なもので、目には見えないもの。
でも、だからこそ、決して失われたり奪われたりすることのないもの。
その豊かさは、精神からの贈り物であり、神からの授かりもの。
その豊かさは、ひとりひとり別々の豊かさで、
その人がこの世に生まれてくるにあたって授かった独自のもの。

そのひとりひとり独自な豊かさを、その人その人のペースに合わせて、ただ、
開いてゆくこと。
それがわたしたちひとりひとりの生涯をかけての仕事かもしれない。

言語造形という芸術に携わっていて、その芸術が舞台の上で生まれてくるとき、声を出すわたしを通して、その豊かさが溢れ出てくる。ことばの力、ことばの精神、ことばの愛が溢れ出てくる。そして、舞台を包む空間には、わたしだけではない、その場に集って下さったすべての人、ひとりひとりの豊かさが共鳴して、新しい豊かさが生まれてくる。

声を出さずとも、その場にいて聴き耳を立てている人の豊かさが、わたしの発する声から溢れる豊かさに合流する。

聴くという行為は、まぎれもなく、愛だから。
演じ手と聴き手の豊かさの合流から生まれる「新しい豊かさ」。
言語造形の舞台は、きっと、そのような新しい豊かさを創造していく場。

これからの豊かさは、単に演じ手から聴き手に一方方向に与えられるものではなく、演じ手と聴き手が共に創っていく新しい豊かさ。演じ手と共に、聴き手が意識的に創造に参加することによって、本物の豊かさが生まれる。

言語造形の舞台は、その新しい豊かさへのいざないでもあります。
新しい豊かさに向かって、共に創る場、それが今日のこの場であります。

今日はお忙しいところをお運びくださって、本当にありがとうございます。
                                                   諏訪耕志


            


『宮澤賢治の世界』 公演日までのわたしたち

今回、初めてわたしと同じ舞台に上がる夏木(満八歳)は、出ることが決まったとき、「え〜っ、わたしが〜!でも、嬉しい!」と思ったそうです。この嬉しさはどこから来ているのでしょうね。

娘は学校から帰ってきて二時間ほどたっぷり遊んでから、晩ご飯前に稽古していたのですが、そのせいか、毎晩九時になると、ばたんきゅ〜で寝てしまっていました。お母さんと一緒に毎日同じことに取り組むこと、そして毎日少しずつ上達していくことが相当嬉しいようで、喜んで一生懸命声を出していて、その姿は、我が娘ながら、なんともありがたく、尊敬の念すら感じました。  

毎日そんな彼女の様子を見ていて、もうひとつのことに気づきました。それは、芸術に毎日触れて取り組み続けることが、彼女のこころとからだに健やかな働きを及ぼしているということです。稽古のたびごとに、何か清いものに洗われたような表情を彼女は見せてくれました。

わたしたちがすることは、賢治の作品に、できうるかぎり、できうるかぎり、沿っていくこと。
作品と、声を出すわたしたちが、ひとつになること。そして、こうして声を出すことができる喜びと感謝を、稽古のたびごとに感じること。毎日、それらのことだけをしながら、淡々と日々を生きてきました。

そして、賢治という人が書き残してくれた作品に沿っていく毎日を送ることで、わたしたちは、自分たちのこころとからだが、何かに洗われているような感覚を味わってきたように思います。作品が、一読、たとえ難解なものであっても、その作品の価値を直感したならば、その作品に繰り返し取り組んでいくことで、だんだんと感じられてくる深みと面白み。そして、賢治自身がずっと追い求めていたであろう「まことのしあわせ」というものをそこはかとなく感じ始め、それを分かち合う。

公演日までのプロセスは、わたしたちにとって、自分たちの中の泉を見いだし、その泉から溢れだしてくるそこはかとない喜びを互いに汲みあう、そんな日々でした。

今日、来てくださった皆さんとも、その喜びの杯を汲みあうことができれば、
こんなに嬉しく、ありがたいことはありません。
                                                    諏訪耕志






  2013  京都・大阪   「高瀬舟」


       


  ことばの一語一語、音韻のひとつひとつが、
  舟の舳先にさかれる水の囁きのように、
  聴く人のこころの深みに響いていく・・・。
  その内なる響きに耳を傾けていくとき、
  夜の向こう側にわたしたちは何を見ることができるだろうか。

  言語造形による語り。
  ヴァイオリン。
  ふたつの声の交響する世界。

  わたしたちはこれからも『高瀬舟』という作品とともに旅を続けていくだろう・・・。


      語り     諏訪 耕志
      音楽     森田 徹


      


■京都公演 
 2013年4月20日(土)  森田建築事務所 「上門前の家」

■大阪公演    
 2013年6月16日(日)  帝塚山 「ことばの家」


京都公演のご感想はこちら    大阪公演のご感想はこちら 



『高瀬舟』 から促されるこころのなりかわり

                 
この『高瀬舟』という作品には様々な側面があるが、作品を読むたびに、わたしがとりわけ立ち止まり自分自身に問わずにはいられないのが次の問いである。

「足るを知る」「おのずから感謝できる」「希望がある」というこころのありようが、一時的なものではなく、人生を貫いて響く通奏低音のようなものに、果たしてなりうるのだろうか。

外的なものを失ってしまっても、そのようなこころのありようを、人は保つことができるのだろうか。

わたしたちは、例えば日々「満足すること」を追い求め、その都度その都度、そこそこに満足を見いだしている。しかし、健康や、家庭や、友人や、愛や、仕事や、プライドや、見栄など、人生を支えてくれていると思っている何本かのつっかえ棒のようなものがはずれてしまうことがあり、それらがはずれてしまった時に、人は果たして、どこに、どのようにして、「満足」「感謝」「希望」を見いだすことができるのだろうか。

この問いは、現代人にとっても、実に、実に、ラディカルな、そして生きることにおいて本質的な問いなのではないだろうか。

外的なものすべてを失っても、「満足・足るを知る(知)」「感謝(情)」「希望(意)」をこころに湛えている喜助という男。もしかしたら、すべてを失ってしまったからこそ、そのようなこころの世界に入っていくことができたのかもしれない。

この知・情・意というこころの三つの力を活き活きとバランスよく育んだ人にもし出逢ったとしたなら、きっと、わたしも、その人の頭のうしろに光を見るだろう。
庄兵衛と同じく、月々決まった金で何とか暮らしを立てていくことだけに汲々としているわたしのような人間にとって、本当の意味で「満足」「感謝」「希望」を見いだしえている喜助のような人との出逢いは、おそらくとても、強く、深い、印象を残すであろう。

この作品はその千載一遇の出逢いから始まる新しい生き方への、内なる大きな方向転換を、わたし自身の人生においても促そう、促そう、としてくれている。庄兵衛のような生き方から、喜助のような生き方、あり方へと・・・。

                                                諏訪耕志

                 
楽譜が演奏によってはじめて、
生きた音楽として体験されるように、
物語は言語造形によってはじめて、
生き生きとした一つの体験になるのかもしれません。

物語の奥に流れているものが、
ことばの響きによって立ち上がっていくように、
それを音楽の響きとして、感じ、表していくこと。

その為に、言語造形とともに、
物語を奥深く読み込んでいくことは、
その中に秘められた、
未知の楽譜を見出していくかのようでした。
その際、ことばにはなっていないが、
印象として感じられるものを
見出していくことにも意識を向けました。

この物語の豊穣を
生き生きとした一つの体験として、
皆様とわかちあえることができれば、幸いです。

                                                  森田徹

◆ 森田 徹(音楽・演奏) プロフィール
ヴァイオリンによるクラシックから中世古楽、民俗音楽、即興、ジャンベや舞踏などとのコラボレーションなどの演奏活動、CD制作など。森田建築設計事務所主宰。






  2009  語り 「絵姿女房」  ドラマ 「夕鶴」


 見るなと妻に言われていたのにもかかわらず、
 その機織っている姿を見てしまう夫。
 妻は高い世から舞い降りてきた鶴の化身。
 しかし、こころの成熟を遂げないうちに、
 人は高い世を見てはいけない。
 夫は、まだその境を超えることはできない。

 そもそも、わたしにとって、あなたにとって、
 「高い世」とは何なのか?
 わたしは、あなたは、その高い世を本当に
 見たいのか?
 そして、わたしにとって、あなたにとって、
 その世を見るための、こころの成熟とはい
 かなることなのか?

 この「夕鶴」というドラマは、
 現代を生きているわたしの内に密やかに息
 づいている憧れと、また同時に眠りこけている
 わたしの意識のありようを、夫「与ひょう」の姿
 を通して描ききっている。

 願わくば、このドラマが「わたくしの中の
 みんなであるやうに、
 みんなのおのおののなかのすべて 」として、
 成立することを。


 ■奈良公演 
 2009年12月11日(土) 開演14:00
 奈良教育大学 山田ホール

 ■大阪公演    
 2009年12月23日(水) 開演14:00 
 大阪市立住吉人権文化センター 
         

 奈良公演後援 日本教育宇宙学会 

   ◆出演(五十音順)
     佐野 孝代
     諏訪 耕志
     諏訪 千晴
     花岡 宗憲
     吉田 史子

   ◆音楽     Uwe Walter(ウベ・ワルタ)            
   ◆演出     諏訪 耕志 
   ◆舞台監督  塙 狼星
   ◆特別出演  「空堀ことば塾」子どもたち             




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永遠なるものにして女性的なるもの

                 
この身体は父と母からいただいた。そして土へと帰っていく。しかし「こころというもの」はどこから来てどこへ行くのだろう。こころというものは、地にある故郷ではなく、天にある故郷からやってきて、またそこへと帰っていくのではないか。

故郷、ふるさと、というと、人はなぜか母のことを憶い出す。必ずしも実在の母ではないかもしれない。ふるさと、そこでは人という人が宿り、生まれ、育まれ、守られている。そこは「母なるもの」が息づいている場所、「母の国」と言ってもいい。

人のこころにとっての母の国、それは天にあるのかもしれない。そしてそこから、『夕鶴』のつうはやってきたのかもしれない。母の国からの使者、母なるもの、「永遠なるものにして女性的なるもの」として。

すべてを生み育む母たちは、織りなしつつ生きている。そしてつうも、機を織ることによってこの地上世界に何かを生み出している。しかし、人のこころはいつしか母の国、母なるものに目を向けることを忘れ、母たちによって生み出された「ものごと」に固執するようになってしまう。

しかし、この地上のものは、人も、ものも、何もかもが、生じ来たっては過ぎ去って行く無常のものだ。この無常感に人は耐えられず、様々なものにしがみつこうとする。常なるものに触れること、永遠なるものとひとつになることによってのみ、人は安らかさと確かさと健やかさを取り戻すことができる。あらゆる宗教、芸術、科学はその具体的な方図をなんとか見いだそうとしている。それが人の歴史だ。
ゲーテが『ファウスト』の幕切れにこう書き記している。

なべて過ぎ行くものは  比喩に過ぎず。  地上にては至らざりしもの
ここにまったきものとして現われ  およそ言葉に絶したること  ここに成就す。
永遠なるものにして女性的なるもの  われらを彼方へと導き行く。
(柴田翔訳) 

彼方とは死の国であるが、そこは同時にすべてが生み出され織りなされるところ、生のおおもとの国でもある。そこに人を導くものは「永遠なるものにして女性的なるもの」だとゲーテは生涯最後の作品の最終部に書き記した。

わたしたちはこの世に生きている。しかし、この地上の人生の毎日をどう、生きているだろう。果たして、過ぎ行くものを過ぎ行くものとして知りつつ、永遠なるものに触れつつ、おのれ自身が永遠なるものとして毎日を生きていくことはできるだろうか。この地上の国と母なる国とはひとつになりえるだろうか。その導き手である「つう」とともに暮らしていくことがわたしたちにはできるだろうか。「つう」に去られた今、わたしたちはその暮らし方をあらためて学ぼうとしている。

                                        「ことばの家」 諏訪耕志






  2009 「メルヘンに耳を傾けてみませんか」



 人のこころを慰め、潤し、活気づけるメルヘン。
 それは、人から人へずっとずっと語り継がれてきたもの。
 そんな小さな物語を三つ、グリムメルヘンからお聞かせ
 いたします。
 ピアノの調べとともに、どうぞひと時をお楽しみください。


    ◆演目・出演

     「おおかみと七匹の子やぎ」  佐野孝代
     「へんな旅芸人」  諏訪千晴
     「いばら姫」  花岡宗憲

    ◆音楽  清水香織





  ■大阪公演
   日時:2009年3月21日(土) 13:30開演 
   会場: 浪速 高津宮「富亭」 (tel 06-6762-1122)

  ■奈良公演
   日時: 2009年3月28日(土) 14:30開演 
   会場: わらべうたの館「奈良市音声館」 (tel 0742-27-7700)






 2008  語り芝居 宮沢賢治 「呼吸する世界」


 わたしたちが生きているこの世界の深さ、浅さ。
 それはひとりひとりの人間の生き方の深さ、
 浅さに対応している。    
 世界をどう捉えるかは、ひとりひとりの人に任さ
 れている。

 宮沢賢治が世界を、人生を、どう捉えていたか。

 語り芝居というスタイルで、彼の世界観・人間観
 にこころから迫ってみたいのです。

 この舞台を通して、
 現代を生きるわたしたちひとりひとりの世界観・
 人間観があらためて見直されることを目指して。


 ■姫路公演 
 2008年11月1日(土) 開演14:00 
 兵庫県姫路市環境ふれあいセンター

 ■大阪公演    
 2008年11月2日(日) 開演14:00 
 大阪市立住吉人権文化センター 
         
 姫路公演後援 姫路こころの事業団 

   ◆出演(五十音順)
     伽音 経子
     榊 法子
     佐野 孝代
     諏訪 耕志
     諏訪 千晴
     乃村 葉子
     花岡 宗憲
     吉田 史子

   ◆音楽  吉田 幸平
   ◆照明  三浦 悟                        
   ◆演出  諏訪 耕志 
                
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なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

                              宮沢賢治 『農民芸術概論綱要』より

わたしたちは毎日を生き抜いていくために、衣食住といった物的な糧とともに、
必ずこころの糧を求めます。
こころの糧は本来的に精神からやってきます。
精神とは、まことと愛と善きことです。
その精神から、こころの糧は得られます。
賢治は、風から、雲から、そのこころの糧を得よ、と叫びました。
風に、雲に、宇宙に、精神は息づいているからです。

わたしたちの生きている時代は、どんどん先に進んでいます。しかし、
人が人として生きていくパワーとエネルギーを根本的にどこから得るのかということは、
時代を貫いて変わらないのではないでしょうか。

みずからの恣意を離れ、風が(もしくは神々しい息が、精神が)吹き込んでこられるように、
みずからのこころと身体を空っぽにすることができれば、
わたしたちは、その都度その都度、生きる底力を湧き立たせることができる。

これらのことは、何事も一生懸命に頭で考えて考えて考えている現代人である
私たちにとっては、分かりにくくなっていることかもしれませんが、
人間の本当に原始的なこととして、皆さんと分かち合いたいと希んでいます。

身体とこころまるごと使ってことばを語り歌う、言語造形という芸術を通して。
覚悟を通して。
                                        「ことばの家」 諏訪耕志






 2008  言語造形公演  「藪の中」


 人間だれしものこころの奥に潜む闇。
 わたしたちは、それを、浮かび上がらせたい。
 そして、それを、昇華、成仏させたい。

 芥川龍之介の傑作を、語り芝居で、
 お聴きいただきます。

 闇と闇とが、向かい合い、重なり合う。
 あなたの闇。わたしの闇。
 共に向き合うために。
 そこに光が当てられるために。

 ■姫路公演 
 2008年3月20日(木・祝) 開場14:00 開演14:30 
 兵庫県姫路市環境ふれあいセンター

 ■大阪公演    
 2008年3月22日(土) 開場14:00 開演14:30 
 大阪市立男女共同参画センター 「クレオ大阪中央」
         
 姫路公演後援 姫路こころの事業団 

   ◆出演(五十音順)
     伽音 経子
     榊 法子
     佐野 孝代
     諏訪 千晴
     乃村 葉子
     花岡 宗憲
     吉田 史子

   ◆音楽  吉田 幸平
   ◆演出  諏訪 耕志






 2005  言語造形公演  宮澤賢治 〜語りと抒情詩と音楽と〜


 どんなものでも いのちは 悲しいものなのだぞ     
                         宮澤賢治 「雁の童子」



 賢治の創造した物語、短歌、詩が、言語造形と音楽により、新しく立ち上がってきます。 

 ■大阪公演   2005年8月24日(水) 13:00 
           「シュタイナーの世界」展 @ふれあいみなと館
 ■奈良公演   2005年8月28日(日) 13:00/16:30 @アートサロン空

 ◆出演      言語造形家: 鈴木一博 ・ 諏訪耕志
           音楽     : いいだむつみ
                                    
 ◆演目
              語り「雁の童子」      
              抒情詩「林と思想」
              抒情詩「高原」
              短歌二首「原体剣舞連」
              抒情詩「原体剣舞連」
              抒情詩「くらかけの雪」
              抒情詩「春と修羅」

●「雁の童子」について        諏訪耕志


(雁の子、雁の子雁童子、空から須利耶におりて来た。)

物語「雁の童子」のなかの一節です。
そもそも子どもはどこからやって来るのでしょうか。

昔から、子どもはこうのとりに運ばれてくるというような言い伝え、語り伝えがあります。
子どもの魂は、鳥に運ばれて、もしくは鳥の姿となって父母の元へとやってくるのだという親のことばを子どものとき、私は素直に受け止め、胸にその絵姿を抱いていました。
そして私も子ども時代を経て思春期を迎えて、そのような絵姿を完全に打ち消してしまうようになってしまうのですが、今この物語を語ってみて私は改めて、子どもは空から降りてくるのだという絵姿を喜ばしくそして厳粛に受け止めています。
そして空から降りてきた人は、この世を生き、この世を去って、どこへ行くのでしょうか。
人は、この世に生まれ、人と出会い、人と別れ、この世を去ります。
しかし、本当に、別れてしまうのでしょうか。

「雁の童子」。

この物語は、何気ない語りのなかに、人というもの、いのちというもの、人の運命(さだめ)、生きることの法則というものの底知れない深みを潜めています。
私は、この物語を、自らが生きていく人生のなかで、何度も何度も反芻することでしょう。


●音楽について     いいだむつみ


宮沢賢治の作品に接していると、その物語や詩からさまざまな音が現れては消え、
消えては現われます。
それは賢治の表現が豊かで、計り知れないほど深く、
さらには人智を超えるところがあるからかもしれません。
現われては消え、消えては現われるものを探しながら、
賢治の作品に問いかけ、対話をくり返し、そうして音(音楽)がうまれました。







 ひとり語り 樋口一葉作「わかれ道」


   広島公演では、小野結実さんのライアー演奏。
   奈良公演では、フランスシター奏者・いいだむつみさんとのコラボレーションです。
   小野さん、いいださんが奏でるその響きは、祈りにも通じ、
   舞台を日常のなかの非日常空間、聖なる空間へと変容させてくれます。

   ■広島公演   2004年11月20日(土) 20:00 @Holistic Living Space ZION 
   ■東京公演   2004年11月23日(火・祝) 14:00 @ 北沢タウンホール
   ■奈良公演   2005年4月29日(金・祝) 13:00/16:00 @アートサロン空

   ◆出演      言語造形家: 諏訪耕志
             音楽(広島): 小野結実
             音楽(奈良): いいだむつみ

●「わかれ道」について      諏訪耕志


明治二十九年(一八九六年)秋、一葉は肺結核のため、二十四歳の若さでこの世を去りますが、この作品はこの年の始めに発表されました。
それぞれに孤独な境涯を背負って長屋へと流れついてきた二十あまりのお京と十六の吉三。二人の恋愛ともいえない恋愛を通して、一葉は人の運命、さだめというものに対する希望、あきらめ、嘆き、夢、儚さ、怒りを、色濃く、色淡く描き出しています。
それは、一葉自身が引き受けざるをえなかった自らの人生の様々な明暗に、強く深く裏打ちされています。

一葉のことば使い、それは当時の文学作品の中でも、幾分古風なものでした。
万葉から始まる歌、和歌、そしてあらゆる古典文学に対する教養を特に最後の一年間に充分に消化、吸収し、独自の文体、ことば使いとして開花させたことによって、彼女の作品は今も読み継がれています。
百年以上前に生きたひとりの女性の手を通して書き記されたこれらのことば。
それらが、語りを通して、今を生きる私たちにどんな力で、どんなリズムで、どんな間合いをもって、響いてくるでしょうか。


●音楽について       いいだむつみ


時代に翻弄され、それでも尚したたかに己の「生」を生き抜いた明治の人々。
その魂を現代(いま)に生きる我々が知ろうとしても、とうてい計り知ることはできません。
一葉の世界から吐き出されてくる音なき音をただ、ただ自己を無にして掬い取る。
それは、他でもない私の魂が還る作業でもありました。
導入はフランスシターの作曲家、ジャック・ベルティエの「小さな子どものように」。
以下の曲は「わかれ道」から生まれた、いいだのオリジナルです。




CONTENTS


「ことばの家」では、言語造形によってことばをいきいきと語ることを学ぶ講座・ワークショップを、関西(大阪)を中心に、さまざまな場所で開催しています。また語り・お芝居の舞台もひとつひとつ丁寧に創っています。