■ 2015 大阪 ・ 神奈川
言語造形公演 木下順二作『夕鶴』
どの人のこころの奥にも、幼な子が眠っている。
こころの奥の幼な子・・・。
その幼な子が微笑むと、
人は途端に安らぎと喜びと愛を想い出す。
人は、いつか、
幼な子の微笑みを想い出すのだろうか。
■大阪公演
2015年2月1日(日) 開演14:00
大阪市立住吉人権文化センター
■神奈川公演
2015年5月1日(金) 開演18:30
相模女子大学グリーンホール
◆出演
塙 狼星
松田 美鶴
諏訪 耕志
諏訪 千晴
◆演出 諏訪 耕志
◆特別出演 諏訪 夏木 諏訪 かさね
舞台の上での批評 諏訪耕志
わたしたちとっては、この『夕鶴』は五年ぶりの再演です。今回、稽古を重ねてきて、木下順二の戯曲から、五年前には気づかなかった新たな魅力、意味がわたしたちに立ち顕れてきています。
男と女というもの。
金の魅力とその価値観を粉砕し無化してしまうほどの
何かへの予感。
おさな子たるところと如才なさとの間の往復。
精神の高みへの憧れと拒否。
人と神とのかかわり。
人と悪魔とのかかわり。
そして、わたしたち日本人と神とのかかわり。
それは、頭による作業からだけではなく、こころからの、からだまるごとからの、ことばというものへの取り組みを通して、戯曲自体が語りかけている声をわたしたち演者が聴き取っていく作業から生まれてくるものです。
言語造形というものを通して舞台芸術を創り上げていくことの何よりの魅力は、何度も何度も声を出し、稽古を重ねていくことで、ことばというものをからだまるごとで洗い直し、その行為の繰り返しによって、思いもかけないことばの深み、作品の深み、人が生きることの深みがだんだんと顕わになってくる、ということです。
時間の積み重ねの中で、作品が変容していく。
作品に秘められているものがだんだんと顕わになっていく。
物語や戯曲や詩という言語芸術の批評が机上でなされるのではなく、稽古場の中で、舞台の上で、なされる、ということに大きな魅力を感じています。
わたしたちが聴き取りつつあるものと、劇を観て下さり、聴いて下さる方々が聴き取るものとが、どう重なり、どう隔たるか。
小学生から人生の酸いも甘いも噛み分けてこられた熟年の方々まで今日は聴きに来て下さっています。
皆さんの精神に響くような舞台となることを念じております。
■ 2014 大阪
ことばの家の『クリスマス祭』
わたしたちの毎年のクリスマスは、
聖き幼な子の誕生を想い出すお祭りです。
その幼な子とは、どの人のこころにも宿る精神の光であります。
クリスマスは、
その幼な子が、わたしたちどの人のこころの奥にも生まれいづることを想い出し、
そのことを祝い合うお祭りでもあります。
■ 演目 グリム童話「白雪姫」、 日本の昔話「大歳の焚き火」
全員でアドヴェントガーデンのキャンドルサービス
■ 日時 2014年12月20日(土)
■ 会場 ことばの家
■ 2014 大阪
村上恭仁子さん公演 『台所のおと』
台所から立ってくる響き。
そこには、台所に立つ人の気性、性格、心根、さらに志もが響いています。
日本語の美の至上として、幸田文のこの物語を、耳で聴くことの味わいを是非ともご嘆賞ください。
ときに繊細に、ときに力強い扱いをもって、村上恭仁子さんはこの物語を語ります。
■ 演目 幸田文著 「台所のおと」
■ 語り 村上恭仁子
■ 演奏 チェロ 山口健
■ 日時 2014年10月5日(日)
■ 会場 ことばの家
公演にあたって 村上恭仁子
この度はようこそおいで下さいました。
言語造形の魅力に取りつかれて、三年目となります。
言語造形とは、ルドルフ・シュタイナーの提唱するアントロポゾフィーを元として編み出されたことばの芸術です。ことばの一音一音に耳を澄ませ、一音一音のかたちを意識し、息遣いや間を意識して語ることで、まるで文字が音楽のように奏でられます。その時、語り手の体は、ことばが通る管となり、まさしく、息を吹き込むことで音の鳴る楽器と化します。
お稽古をしていると、慌ただしい日常生活において、日々、いかに深い呼吸をする余裕を失っているかがよくわかります。次から次へと押し寄せてくる情報や考え、あらゆる想念・・・それらをすべて一旦脇に置き、体を真空にし、自我を失くして芸術に身を預けること、それは真の人間性を取り戻すこととも言えます。
言語造形では、「息を吐き切る」鍛錬に非常に時間をかけます。
これ以上吐けない、というギリギリのところまで来てはじめて、ああ、助かった、救われた、という感謝の思いが湧いてきます。
「息を吐き切る」
ただそれだけで、次の呼吸、新たな息吹が入ってくるのです。吐き切ることで、生きる力が湧いてくるのです。まさしく、芸術とは、いかに深く呼吸できるかにかかっており、
まさしく、人間の根底になくてはならないものではないか、と思うのです。
とはいえ、お聞き苦しいところもあろうかと思います。益々精進して参りますので、
今後ともご支援を賜りますようお願い申し上げます。
本日は、誠にありがとうございました。
深い深い息遣いと、ことば一語一語の明瞭な造形。
わたしたち観客は、彼女の深い呼吸を共にし、ひとつひとつの音韻の造形と共にみずからも密やかなダンスをしながら、物語を共に生きたのでした。
それは、まぎれもなく、その場にいる人と人との、目には見えない、一瞬一瞬に織りなされる精神の連携でありました。
だからこそ、老若男女皆、今日の二時間を超える公演中、身じろぎもせず、空間に造形されることばの世界に浸りきっていたのでした。
全く、稀有な世界だと思います。
その世界を村上さんと共に観客みんなで創り上げたのです。
山口健さんのチェロ演奏もこころの深みに触れるような響きを奏でてくれました。
言語造形の舞台は、ことばの響きと共におのずと立ち現われる精神の空間です。
ひとりひとりの人が集い、そこでことばの精神に耳を傾ける礼拝の場です。
終演後、わたしは妻とふたりで話しました。
「自分たちは、このことばの家で、何をやってるんだろうね」
「言語造形に仕えさせてもらってるね」
素晴らしい舞台を生んでくれた村上さん、山口さん、そして観客の皆さん、
本当にありがとう。
諏訪耕志
■ 2014 大阪
「詩とメルヒェン ~詩人による言語造形~」
詩は、私にとって、「わたしは在る」というその臨在の、すぐそばにまで在って、
自分の魂を写すもののように思います。
向かい合い、書くことを通し、わたしをそこまで運んでくれる、形ある天からの息吹であると。
今回は、自宅を店舗にしている「菓子美呆」のコンセプトにもなっている物語を、
メインに語ります。
詩は、植物や、人間の感情や心象風景をテーマに選んで語りたいと思っています。
静かな夏の昼下がり、温かな思いが、ことばの家を満たしますように。 稲尾教彦
■ 演目 自作の詩と物語
■ 日時 2014年 7月13日(日)
■ 会場 ことばの家
公演を終えて 稲尾教彦
7月13日(日)は、大阪「ことばの家」で言語造形公演をさせていただきました。
「詩とメルヒェン」という題での公演。
まず、諏訪先生のアトリエでもあるこの「ことばの家」のもつ、場の力の優しい強さに感謝します。
この建物全体を包む、目には見えない空気は、こころの内を自然とひらかせてくれるような雰囲気をもっていて、ことばを語りながら、自分の内に深く降りてゆけるような、そんな感覚を助けてくれる場であると感じました。やはり、諏訪先生が日々過ごし、訓練し、瞑想する力が、この建物全体に浸透して、この空気を作っているのだなと思いました。
今日は間違いなくいい日になる、そんな想いが自然と、ふつふつと沸いてきます。
14時半開演までの間、1時間半ほど稽古をし、公演に臨みました。
みつろうローソクに灯を燈し、クラングシュピール(鉄琴)の音が静かに空間を鳴らして、
僕は遠くを見つめ、ゆっくり息を吐ききりました。
僕はこのとき、いつも、お客さんのこころを、自分の内側にすっぽりと包み込んで、そのままのぽっかりとしたこころのままに、はじめの一音(一語)を発するような感覚でやっています。ことばの音は、僕から聴こえるかもしれませんが、音ではない何かは、聞き手の内部から、湧いてくるのではないかと思うからです。
内部のその感覚が、わたしたちを共有して、内なる旅へと運んでくれる。
ともすれば、天へと。そのことを、僕は、切願するのです。
あっという間のような、40分ほどの詩の語りの時間。夢のような、時間でした。
声と、静寂、無声音の息遣いの中、
響きの波紋の先に、こころの琴線、大切な感覚があると思えるような。
しんしんと深まってゆくような時間を、お客さんと一緒に体験できたような時間。
いかがでしたでしょうか。
休憩を挟んで、後半25分ほどの「おじいさんと小さな男の子の話」の語り。
僕は、こころもちをゆったりとして、臨めました。
何度も何度も繰り返しているせいか、力が抜けて、かすかに微笑など浮かべながら、語れたような気がします。息遣いにも、やや、空間に含み(ゆるみ)を持たせたような感じ。それでも、全体に緊張感はあって。もう少しで、もう少しで、なにか、ここに降りてくるのではないだろうか・・・というような感覚。
終わりのほうに差し掛かるとき、ああ、もう終わってしまうのか・・・と
語り終わりがおしいような気持ちになりました。
木製の小笛を吹いて、ローソクの火を消して、おしまい。
最後まで、静けさがありました。
この公演が終わって、またまた、次なる目標が出来ました。
語りの歩みを進めた先に、ずっと先があって、それを予感として感じたのです。
この予感が、また僕を突き動かしてくれます。日々の暮らし方に、指針を与えます。
自分を導くために、その予感へと、日々近づき、詩と、言語造形を磨いてゆきたいと思います。
お越しくださったお客様、それから、何から何までお世話になりました諏訪先生と奥様、
本当に、ありがとうございました。
ブログ 「美呆村」 より掲載
■ 2014 大阪
「大人が楽しむグリム童話のひととき」
いま、何かとせわしない日々の生活に追われているわたしたち。
そんなわたしたち大人こそが、
こころの奥底でメルヘンや昔話に聴き入ることを求めてはいないでしょうか。
ろうそくの火を囲んで、バイオリンとガムランの響きとともに、
三つのグリム童話に耳を傾けてみませんか。
洋の東西を越えて、
童話は誰しものこころの故郷の調べを奏でています。
■ 演目 「兎の花嫁」諏訪千晴 / 「星の銀貨」諏訪夏木 / 「白雪姫」諏訪耕志
■ 演奏 ヴァイオリン、ガムラン 森田徹
■ 日時 2014年 2月16日(日) 【昼の部】 ・ 【夕の部】
■ 会場 ことばの家
万葉集とグリムメルヘン 諏訪耕志
今回、なぜグリム童話を公演で取り上げることにしたのかを改めて自分自身に問うてみました。ここのところ、わたしにとってとてもリアルに響いてくるのが、『萬葉集』の詩歌でした。五・七・五・七・七の三十一文字で描かれてあることばの世界。そこに記録された様々な歌を口ずさんでいると、この三十一文字の裏にもうひとつの文字になっていない歌があり、その歌は創造や生成の場としての混沌と言っていいようなところから立ち上がってくるもので、それは原形質の感情であるがゆえに、すぐにはことばにして言い表すことのできないものだと感じます。
この、歌の本質と言えるものこそを、古代の人は、「言霊」と言ったのだ。この「言霊」ということばを、ことさらに新興宗教の教説めいて言うのではなく、ごくまっとうに、どの人のこころの内にも感じられる、詩歌の味わい、詩の詩たるところ、ことばのことばたるところとして捉えたいのです。
そして、メルヘン、童話、昔話、というものを読んだ後、聴いた後にも、その詩歌の味わいに似た、ことばではうまく説明できない余韻のようなものがこころの深みに揺曳しています。
そのこころの奥に揺らめくように生きる絵姿。響く調べ。きらめき、くすむ色彩。そのようなことばにすぐにはできないところを、グリムメルヘンを通して人と分かち合いたい。そう思ったのでした。
わたしの師の鈴木一博さんが以前に書かれたグリムメルヘンについての文章です。
ひとつ、こういう試みも役に立ちます。いわば実験的様式論です。ひとつのメルヘンを取り上げて、一、二回、読み通したら、本を閉じ、相のひとつ、ことのひとつを、思い描きます、ありありと迎えてみます。そして、そのひとくさりを、ことばにしてみます、声にだしてみます。そしたら、また本を開いて、グリムがものしたその箇所を、よく見てみます。ほとんどそのたびごとに、こういうことが分かるでしょう。グリム兄弟が要しているのは、こちらが要したことばの、おおよそ三分の一ほどだと。また、その少ないことばをもってつくられる文の、大いなる単純さも、際立つでしょう。
さらに、こう問うこともできます。その簡潔な、「飾りのない」言語の形において、読む人が読んだ後に抱くとおり、そうした多彩で、豊かな相が生じるのは、なぜでしょう。その問いをもって、こういうことがはっきりします。まさにその控えめで、みごとに簡潔な形に触れてこそ、読む人のイマジネーションの力に火が点きます。
その力は、ひとつの形を要します。普遍的で、広く、自由の余地を残す形であり、それが十分にそうであってこそ、読み手、聞き手の内なる働きに場が与えられます。
言語学者でもあり、民俗学者でもあったグリム兄弟によって、人々から聴きとられたメルヘンは手を入れられ、彫琢され、造形されて、見事なまでに簡潔なかたちをわたしたちに提示してくれています。
萬葉集の歌やこのグリムメルヘンのように、そのような「かたち」をもって、人の「イマジネーションの力に火を点ける」ことこそが、文学の本望であり、ことばの芸術の本来の働きなのではないでしょうか。
いのちはこちら側に流れている、と思えるような。情報ではない、生きたことば、生きたお話が童話にはそのままあるようです。頭で追わずに体で感じる方が童話にはよりふさわしいのかもしれません。感じた後でこころの奥で密かに変化している何か。じわじわと。三人の言語造形から、感じたそのままを音にするように。
今回はヴァイオリンとガムランで音楽をつくっています。
童話にながれているものを体で感じてみてください。
森田徹
■ 2013 姫路・大阪
「宮沢賢治の世界 」 ~ めくらぶだうと虹 ・ 虔十公園林 ~
たまきはる、命からの叫び。
至高のものへの祈念と悲願。
そのような、文学の生まれる根源に思いをいたしたく、
ことばが芸術となりえる場を、
皆さんと共に創ってみたいと願っています。
語り : 諏訪耕志 諏訪千晴 諏訪夏木
■姫路公演 : 9月27日(金) 姫路市環境ふれあいセンター
■大阪公演 : 9月29日(日) ことばの家
■大阪再演 : 11月30日(土) 玉造 百年長屋
新しい豊かさ ~言語造形の舞台とは~
わたしたちは、ひとりひとりどの人も、
凄まじい位の豊かさをすでに与えられているように思う。
その豊かさとは、内的なもので、目には見えないもの。
でも、だからこそ、決して失われたり奪われたりすることのないもの。
その豊かさは、精神からの贈り物であり、神からの授かりもの。
その豊かさは、ひとりひとり別々の豊かさで、
その人がこの世に生まれてくるにあたって授かった独自のもの。
そのひとりひとり独自な豊かさを、その人その人のペースに合わせて、ただ、
開いてゆくこと。
それがわたしたちひとりひとりの生涯をかけての仕事かもしれない。
言語造形という芸術に携わっていて、その芸術が舞台の上で生まれてくるとき、声を出すわたしを通して、その豊かさが溢れ出てくる。ことばの力、ことばの精神、ことばの愛が溢れ出てくる。そして、舞台を包む空間には、わたしだけではない、その場に集って下さったすべての人、ひとりひとりの豊かさが共鳴して、新しい豊かさが生まれてくる。
声を出さずとも、その場にいて聴き耳を立てている人の豊かさが、わたしの発する声から溢れる豊かさに合流する。
聴くという行為は、まぎれもなく、愛だから。
演じ手と聴き手の豊かさの合流から生まれる「新しい豊かさ」。
言語造形の舞台は、きっと、そのような新しい豊かさを創造していく場。
これからの豊かさは、単に演じ手から聴き手に一方方向に与えられるものではなく、演じ手と聴き手が共に創っていく新しい豊かさ。演じ手と共に、聴き手が意識的に創造に参加することによって、本物の豊かさが生まれる。
言語造形の舞台は、その新しい豊かさへのいざないでもあります。
新しい豊かさに向かって、共に創る場、それが今日のこの場であります。
今日はお忙しいところをお運びくださって、本当にありがとうございます。
諏訪耕志
『宮澤賢治の世界』 公演日までのわたしたち
今回、初めてわたしと同じ舞台に上がる夏木(満八歳)は、出ることが決まったとき、「え~っ、わたしが~!でも、嬉しい!」と思ったそうです。この嬉しさはどこから来ているのでしょうね。
娘は学校から帰ってきて二時間ほどたっぷり遊んでから、晩ご飯前に稽古していたのですが、そのせいか、毎晩九時になると、ばたんきゅ~で寝てしまっていました。お母さんと一緒に毎日同じことに取り組むこと、そして毎日少しずつ上達していくことが相当嬉しいようで、喜んで一生懸命声を出していて、その姿は、我が娘ながら、なんともありがたく、尊敬の念すら感じました。
毎日そんな彼女の様子を見ていて、もうひとつのことに気づきました。それは、芸術に毎日触れて取り組み続けることが、彼女のこころとからだに健やかな働きを及ぼしているということです。稽古のたびごとに、何か清いものに洗われたような表情を彼女は見せてくれました。
わたしたちがすることは、賢治の作品に、できうるかぎり、できうるかぎり、沿っていくこと。
作品と、声を出すわたしたちが、ひとつになること。そして、こうして声を出すことができる喜びと感謝を、稽古のたびごとに感じること。毎日、それらのことだけをしながら、淡々と日々を生きてきました。
そして、賢治という人が書き残してくれた作品に沿っていく毎日を送ることで、わたしたちは、自分たちのこころとからだが、何かに洗われているような感覚を味わってきたように思います。作品が、一読、たとえ難解なものであっても、その作品の価値を直感したならば、その作品に繰り返し取り組んでいくことで、だんだんと感じられてくる深みと面白み。そして、賢治自身がずっと追い求めていたであろう「まことのしあわせ」というものをそこはかとなく感じ始め、それを分かち合う。
公演日までのプロセスは、わたしたちにとって、自分たちの中の泉を見いだし、その泉から溢れだしてくるそこはかとない喜びを互いに汲みあう、そんな日々でした。
今日、来てくださった皆さんとも、その喜びの杯を汲みあうことができれば、
こんなに嬉しく、ありがたいことはありません。
諏訪耕志
■ 2013 京都・大阪 「高瀬舟」
ことばの一語一語、音韻のひとつひとつが、
舟の舳先にさかれる水の囁きのように、
聴く人のこころの深みに響いていく・・・。
その内なる響きに耳を傾けていくとき、
夜の向こう側にわたしたちは何を見ることができるだろうか。
言語造形による語り。
ヴァイオリン。
ふたつの声の交響する世界。
わたしたちはこれからも『高瀬舟』という作品とともに旅を続けていくだろう・・・。
語り 諏訪 耕志
音楽 森田 徹
■京都公演
2013年4月20日(土) 森田建築事務所 「上門前の家」
■大阪公演
2013年6月16日(日) 帝塚山 「ことばの家」
『高瀬舟』 から促されるこころのなりかわりこの『高瀬舟』という作品には様々な側面があるが、作品を読むたびに、わたしがとりわけ立ち止まり自分自身に問わずにはいられないのが次の問いである。
「足るを知る」「おのずから感謝できる」「希望がある」というこころのありようが、一時的なものではなく、人生を貫いて響く通奏低音のようなものに、果たしてなりうるのだろうか。
外的なものを失ってしまっても、そのようなこころのありようを、人は保つことができるのだろうか。
わたしたちは、例えば日々「満足すること」を追い求め、その都度その都度、そこそこに満足を見いだしている。しかし、健康や、家庭や、友人や、愛や、仕事や、プライドや、見栄など、人生を支えてくれていると思っている何本かのつっかえ棒のようなものがはずれてしまうことがあり、それらがはずれてしまった時に、人は果たして、どこに、どのようにして、「満足」「感謝」「希望」を見いだすことができるのだろうか。
この問いは、現代人にとっても、実に、実に、ラディカルな、そして生きることにおいて本質的な問いなのではないだろうか。
外的なものすべてを失っても、「満足・足るを知る(知)」「感謝(情)」「希望(意)」をこころに湛えている喜助という男。もしかしたら、すべてを失ってしまったからこそ、そのようなこころの世界に入っていくことができたのかもしれない。
この知・情・意というこころの三つの力を活き活きとバランスよく育んだ人にもし出逢ったとしたなら、きっと、わたしも、その人の頭のうしろに光を見るだろう。
庄兵衛と同じく、月々決まった金で何とか暮らしを立てていくことだけに汲々としているわたしのような人間にとって、本当の意味で「満足」「感謝」「希望」を見いだしえている喜助のような人との出逢いは、おそらくとても、強く、深い、印象を残すであろう。
この作品はその千載一遇の出逢いから始まる新しい生き方への、内なる大きな方向転換を、わたし自身の人生においても促そう、促そう、としてくれている。庄兵衛のような生き方から、喜助のような生き方、あり方へと・・・。
諏訪耕志
生きた音楽として体験されるように、
物語は言語造形によってはじめて、
生き生きとした一つの体験になるのかもしれません。物語の奥に流れているものが、
ことばの響きによって立ち上がっていくように、
それを音楽の響きとして、感じ、表していくこと。
その為に、言語造形とともに、
物語を奥深く読み込んでいくことは、
その中に秘められた、
未知の楽譜を見出していくかのようでした。
その際、ことばにはなっていないが、
印象として感じられるものを
見出していくことにも意識を向けました。
この物語の豊穣を
生き生きとした一つの体験として、
皆様とわかちあえることができれば、幸いです。
森田徹
◆ 森田 徹(音楽・演奏) プロフィール
ヴァイオリンによるクラシックから中世古楽、民俗音楽、即興、ジャンベや舞踏などとのコラボレーションなどの演奏活動、CD制作など。森田建築設計事務所主宰。